尖閣諸島の争議

(尖閣諸島主権問題の法理論述)

中國が稱する「釣魚台列島」とは、日本が直訳した「尖閣諸島」(The Pinnacel

Islands)である。

日中間の尖閣諸島帰屬問題の論爭が、益々激化する中、其の法的地位を再探究する必要がある。

 

A.1895年4月17日調印した日清下関條約(Treaty of Shimonoseki):

1.英語版のArticle 2(b)第二條b項內:

China cedes to Japan in perpetuity and fully sovereignty the following

Territories, ... ... The island of Formosa, together with all islands

Appertaining or belonging to the said island of Formosa.

 

條文內のin perpetuity(永久に) とin fully(完全に)は 動詞のcede (譲與)

を強調した修飾副詞であり、永久且つ完全に譲與したと表示している。條文の譲與の標的は、「領土(territory)であって、主権( sovereignty)ではない」。

又、條文の和訳や漢訳は「附屬諸島嶼」と模糊な言語を使用しているが、地理的位置から言えば:清國はフォルモサ島及び其れに連結(being connected with)、或いは分類(being classified)されたフォルモサ島の島嶼を永遠且つ完全に日本に譲與する」と明記されている。

 

1898年12月10日に調印された米西パリ和平條約內の「スペインは、スペインの植民地であるプエルトリコ諸島、グアム島、フイリピン群島を、米國に譲與する」Spain cedes to the United States the island of Porto Rico, the

Island of Guam, and the archipelago known as the Philippine islands.

この條文は、清國がフォルモサ島と其の附屬諸島嶼及び澎湖群島を日本に譲與する條文と同意である。只「永遠且つ完全に」とは強調していない。

従って、清國から日本に譲與したフォルモサ島と其の附屬諸島嶼及び澎湖群島の日本國に編入される前迄の法的地位は、スペインがプエルトリコ諸島、グアム島、フイリピン群島を米國に譲與した後の地位「未編入領土(unincor-

porated territory)」と全く同等である。

 

「領土譲與(割譲)」の意義分析:

a.       割譲(cedeable)や移転(transferable)可能の領土は、萬國公法((the law of Nation)の架構內では「神聖不可分割國土の一部」ではない。スペインに於けるプエルトリコ諸島、グアム島、フイリピン群島は、何れもスペインの植民地であった。清國に於けるフォルモサ島と其の附屬諸島嶼及び澎湖群島も同じく清國の植民地であり、全て「神聖不可分割國土」ではなかった。

 b. 譲與(ceded)や移転(transferred)された領土は、受領國政府の政策需要に依って憲法施行の程度を見計り、行政管理権(right to administer)、處分権(right to dispose of)等の領土権(right of territory)を行使して新受領土の法理地位が決定できる。

   例えば、プエルトリコ諸島、グアム島は、未だ米國に編入されておらず、今でも米國の「未編入(合併)領土」(incorporated territory)

      に分類されている。 相対して台灣は、1945年4月1日、既に日本に

   編入し、憲法実施もされており、元來の「未編入(合併)領土」から

   「編入(合併)領土」に転換している。

c. 領土割譲に就いて、割譲側は必ずしも領土主権を擁しているべきとは限らない。雙方が領土主権を擁しておらずとも、一方が主権爭奪権を

  放棄し、主権を構築できる「管理権」を相手に割譲することができる。

 

2 日本語版の下関條約(日清馬関條約)(Treaty of Shimonoseki)

  第二條二: 清國は台灣全島及び其の附屬諸島嶼の主権を永遠に日本國

  に譲與する。

  日本語版の譲與標的である「主権」の解釈は、英語版の(cede territory)(譲與領土)の原意とは完全に符合していない。 事実上、清國の台灣主権構築は未完成であり、條約二條b及び二條cの「台灣割譲」に関する條文は、「台灣の主権帰屬」に関連していない。

 

3 漢語版の下関條約(日清馬関條約)(Treaty of Shimonoseki)第二款二:

  大清帝國將管理台灣全島以及所有附屬諸島嶼之権、永遠割譲日本。 

 

  中國古書籍には確か中國が日本より早期に尖閣島を発見したと記載しているが、中國は発見以後、其の島の領土宣言(claim to territory)、

佔領意志(intention to occupy)、有効佔領(effective occupation)の事実を,國際社會が承認する「領土佔享権」(title to territory)を取得していない。

  

    清國はフォルモサ島を212年間領有したと公表しているが、実際には、

清國の法令が台灣島內で実施された面積は、全島の約三分の一に過ぎなかった。漢人が開墾した區域の台灣省だけで、島內の高砂族(mountain

People)に対しては有効な統治はできなかった。台灣全島を統一させることが、根本的に不可能だけでなく、一つの「完璧なフォルモサ主権

(sovereignty over the whole of Formosa)を構築することもしなかった。

又、フォルモサ島北部の大屯山から延伸した大陸岩礁である尖閣諸島は、

清國台灣省の如何なる管轄區の一部にも編入されていなかった。

従って、1895年4月17日の時點では、清國のフォルモサ島及び尖閣諸島に

対する主権は國際法に符合しているとは言えない。

 

下関條約(馬関條約)の漢語文を詳細に解読すると、第二條b項には清國

がフォルモサ島の主権(sovereignty over the island of Formosa)及び其の附屬諸島嶼の主権を擁していると記述していない。 この條文には:永遠に日本に譲與した標的は、「フォルモサ全島及び其の附屬諸島嶼の「領土管理権」(right to territory)と明確に記述している。

この條文が意味するのは、清國が台灣主権の構築は未完成であることを認め、「下関條約」で以て台灣主権を構築できる「管理権」しか日本に譲與できなかったのが清國の本音であろう。

 

B.1943年12月1日佈告された「カイロ聲明」(Cairo Communique)

  “It is their purpose that ..., and that all the territories Japan

     has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and the

     Pescadores, shall be restored to the Republic of China.”

   カイロ聲明の目的は、、、、 「満州、フォルモサ島、湖澎群島のような

日本が中國人から盜取した全ての領土を中華民國に返還すべし」とあるが、事実上、この聲明は戦時中の協議であり法理根拠は無く実現不可能である。

 其の法理分析は下記の通り:

 

a.   フォルモサ島の三分の二の領土は清國の中國人にとって「化外の地」で、高砂族の領土であって、カイロ聲明の所謂日本が中華民國に返還すべき領土ではなかった。 清國は下関條約に基づいてフォルモサ島、

 及び地理的に連結する尖閣諸島と湖澎群島を永遠且つ完全に日本に譲與

 したことは、中國はもう日本に譲與した何れの島嶼の「領土宣示」(Claim

to territory)を主張する立場にない。 既に永久割譲した場合、返還要求する理由は成立しない。これは國際法上、永遠不滅の道理である。

 

b.   中國は一概に日本政府が1895年1月14日の內閣會議で決定した尖閣諸

島を日本領土版図內に採り入れたことを認めず、日本が中國領土を盜取

したと認定している。 然し、フォルモサ島、尖閣諸島と湖澎群島は、確実に日本が下関條約に依って中國から割譲され取得した領土であって盜取した領土ではない故、日本は上記の諸島を中國に返還する立場に無い。

c.   フォルモサ島と其の附屬諸島及び湖澎群島を含む「台灣」は

  1943年12月5日のカイロ聲明発布の時點では、確かに日本國土の一部 

  に編入されていなかったが、日本裕仁天皇が、昭和20年(1945年)

  4月1日に詔書を宣佈し、台灣人に參政権を賦與した後、台灣は明治憲   

  法に依って日本に合併され、日本の神聖不可分割國土の一部となった。

  萬國公法の拘束下で、日本にはカイロ聲明の中國に返還すべき依拠が

  無いことは疑う餘地がない。

 

C. 1951年9月8日に調印されたサンフランシスコ平和條約第二條b項

 Article 2(b): “Japan renounces all right, title and claim to

                  Formosa and the Pescadores”

 

 萬國公法の架構內で、台灣に対する日本の放棄できる標的は、「非天賦の

移転できる主権権利」(unnatural alienable right of sovereignty)

である。それは、領土の統治権及び處分権を含む「領土権」( right to territory)と、有効佔領実施で得た「領土佔領享受権」 (title to territory) 及び「領土宣有権」(claim to territory)であるが、「天賦 の移転できない主権義務」( natural inalienable obligation of sovereignty)を放棄することはできない。

従って、下関條約で中國側が譲與した標的は「領土」であり、

サンフランシスコ條約で日本が譲與した標的は「権利」である。

 

然し、1951年9月8日サンフランシスコ平和條約が調印された時點で、日本の「國家主権」は同盟軍に吊るし上げられていたが、台灣の「主権権利」は、既に1945年12月25日に中國軍事佔領當局に転移されていた。

依って、日本が條約第二條b項で唯一放棄できる標的は、「復帰できる

台灣の主権権利」(to regain the rights of sovereignty over Taiwan)だけだった。

 

日本が1945年9月2日正式に同盟軍に投降した時點に於いて、日本の

台灣に対する「主権権利」は:

 

1.   フォルモサ島と其の附屬諸島及び湖澎群島に対して:

上記の諸島は日本が1952年4月28日発効の平和條約第二條b項で

「主権権利」を放棄した後、中國人の佔領當局が1945年10月25日から佔領を実施、1949年12月10日から中國亡命植民の台灣管轄當局に変わり、[台灣の米國軍政府]( United States Military Government of Taiwan)の佔領代理役として今日に至る。

2.   尖閣諸島(釣魚台列島)

 地理的観點では、尖閣諸島は、元來36個の島嶼で構成された琉球王國

 管轄下の琉球列島に屬しておらず、フォルモサ列島の一部に構成され

 ていた。従って、フォルモサ島と関連(appertaining)ある附屬島嶼は下関條約に依って日本に譲與された事実に符合する。

 

 昭和12年と13年の台灣総督府の公表に依れば、尖閣島の漁業権は

 台灣に帰屬している。 1937年から1940年の間、台北州と沖縄県

 が尖閣諸島漁業権問題で紛糾が発生し、1944年東京裁判所は「尖閣諸島は台北州宜蘭郡の管轄下に帰屬する、沖縄県とは無関係」と明確な判定を下した。 様々な現象から推論できることは、1896年4月に日本が沖縄県八重山郡から石垣市に移動した尖閣島を1937年(昭和12年)

 4月1日、日本政府が、第一七任台灣総督小林躋造の台灣皇民化運動に迎合して台灣総督府管轄內の台北州宜蘭郡內に併合した。 これは萬國公法內の國家構成條件である「人民は領土內の自然と共に生活すべき」の法則に符合したものと思われる。

 その後、1945年4月1日、台灣に明治憲法が実施され、台灣は日本

 國土に編入され、同時に尖閣諸島も正式に日本國土の一部に編入されたのである。 

 

爭議中の尖閣諸島の位置づけに対する異なった認知:

 

a.   沖縄県石垣市に編入された尖閣諸島

   中國側は、日本が1879年4月4日琉球王國を併合したことを元々認め 

   ず、1895年1月14日に日本が未発表(unpublished)で尖閣島を日本領土に編入したことも承認しない。従って中國は日本が下関條約調印前に既に尖閣諸島を沖縄県外に編入したことも、更に尖閣諸島が沖縄県に隨行して1919年正式に日本に編入され日本國土の一部となったことも、承認しようとしない。

  

b.   台灣台北州宜蘭郡に編入された尖閣諸島

 中國側が承認すべきことは、下関條約が1895年5月8日発効の時點か  

 ら尖閣諸島は永遠に日本に帰屬したことである。清國が既に下関條約

 で承認した事実に基づいて、日本は尖閣諸島を含む台灣に対する主権を構築できる「管理権」を有している。又、1937年に台灣台北州宜蘭郡に隷屬変更された尖閣諸島は、台灣に隨行して1945年4月1日正式に日本の神聖不可分割の國土となった。これは「譲與で以て取得」した領土で「盜取で取得」した領土ではない故、カイロ聲明で提起した

 「中華民國に返還すべき領土」ではない。

 

 日本は1952年4月28日、サンフランシスコ平和條約発効後から、

「主権國家」に回覆した。事実、條約発効前から日本は台灣に対する

主権は行使できず、台灣に隷屬する尖閣諸島も移籍していない。

日本は平和條約第二條b項で、台灣に対する「主権権利」を放棄した。

米國は平和條約第二十三條a項に依る、日本を征服した「主要佔領権國」(Principal occupying power)である。 これは國際戦爭法內の「征服を経た佔領」で、征服権から生じた佔領権であり、フォルモサ島、湖澎群島及び尖閣諸島を含む「日本台灣」(Japanese Taiwan)の「主権権利」を米國が取得しているのである。

(註:「主権権利」は「主権」に非ず)

 

 1952年4月28日、サンフランシスコ平和條約発効時點の「日本台灣」に対する米國の處理法:

  

  1. 居住に適する島(inhabitable islands)

 米國は「反共」の需要と「カイロ聲明」の道義上に基づき、台灣島と周辺島嶼及び湖澎群島など居住できる島嶼の佔領権を、蔣介石率いる台灣管轄當局に代理執行を委任した。

3.   居住不適の島(uninhabitable islands)

 居住に適しない尖閣諸島を米國は、台灣管轄當局や日本政府に委任し

 ておらず、両者とも尖閣諸島に対する行政権は無い。

 

サンフランシスコ平和條約第三條文內に:

 北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)とあるが、

 1951年9月8日、平和條約調印の時點では、尖閣諸島は其の範囲內に

 含まれていなかった。

 

然し、1970年に米國國務省が尖閣諸島の帰屬に対して、記者の質問に

次の様に答えた:

Under Article III of the peace treaty with Japan, the United States

Has administrative right over the “Nansei Shotou.”This term, as

Used in that treaty, refers to all islands south of 19 degrees north

Latitude, under Japanese administration at the end of the second

World war, that were not otherwise specially referred to the treaty.

The term, as used in the treaty, was intended to include the Senkaku

Island.  Under the treaty, the United States government administers

the Senkaku Islands as a part of the Ryukyu Islands, but considers

that residual sovereignty over the Ryukyus remains with Japan. As a

result of an agreement reached by President Nixon and Prime Minister

Sato in November 1969, it is anticipated that administration of the

Ryukyus will revert to Japan in 1972.

 

上記の米國國務省の回答から推知すると:

1.   平和條約第三條では、北緯29度以南の南西諸島については構成された

  島名の明細はなかった。

2.   米國は尖閣諸島を台灣の管轄當局に佔領代理権を授與せず、米國自身が

  佔領権を施行した。 米國が征服で佔領した尖閣諸島に対し、平和條約の規定に依り米國は尖閣諸島の支配権と最終帰屬の決定権を有している。

3.   米國は意図的に或いは計畫的に、元來台灣に隷屬していた尖閣諸島を

  政策に依って琉球列島の一部とし、日本に返還した後、日本沖縄県に

  併合させた。

4.   行政分割から雲えば、ずっと平和條約発効時まで台灣宜蘭県に隷屬していた尖閣諸島は、事実上変改していない。 1952年時のトルーマン政権の尖閣諸島地位に対する認知は、必ずしも1970年時のニクソン政権琉球列島の一部にした政策とは一致しない。

 

米國は1971年6月17日日本と調印した「沖縄返還協議(Okinawa Reversion Agreement)」を平和條約第三條と照合して琉球列島及び大東諸島の管轄権と沖縄島の行政施政権(administrative  right over Okinawa )を日本に返還した。 (註:返還時に住民投票は行われなかった)

 

台灣に隨行して日本に編入された尖閣諸島の行政権に対して米國は、平和條約第三條の規範に依るものではなく、第二條b項の規範に依ったものと思われる。“Italian Somaliland”の例のように、宗主國イタリアが「対イタリア平和條約」(Peace Treaty with Italy)でソマリアを放棄した後、連合國がその信託管理をイタリアに返還した模式を參照して、琉球列島を日本に返還後、再び日本沖縄県石垣市に編入させた。

米國はこの尖閣諸島返還の模式と照らし合わせて、台灣の正常地位を回覆させる(to restore Taiwan to its normal status)ことができるのである。

地理的、法理的から見ても、尖閣諸島は琉球列島を構成する一部ではなく、

確実に台灣の一部に屬していた。 日本政府が尖閣諸島は日本固有の領土であると再三強調するのであれば、台灣も日本の神聖不可分割の一部であると承認していることである。

 

4.   新南群島(南砂群島)及び平田群島(西砂群島)

 日本と南海諸島との法理的関係:

 

a.       日本語文獻の記述

 

「昭和14年3月30日付きの台灣総督府令第31號に依り、新南群島が

大日本帝國の領土として、台灣高雄市に編入した。」

 

b.       漢語文獻の記述

 

1939年3月30日、日本軍は南砂太平島を佔領。

1939年4月9日、日本軍は太平島に盤居しているフランス軍とベトナム漁民を全て追放した。

    1939年4月28日、日本台灣総督府は、第122號告示で「平田群島(西砂群島)及び新南群島(南砂群島)の各島を一括して「新南群島」と

    改名し、台灣高雄州高雄市に編入した。

 

c.       サンフランシスコ平和條約の規定

 第二條f項: 日本は、新南諸島及び西砂諸島に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する。

 

上記文獻の記載に依れば「新南群島」は如何なる法令、如何なる時點

で台灣高雄州に編入されようが、若し南海諸島の「主権」が中國に帰

屬した満州と同質であれば、日本には處分権はなかった。

従って、平和條約第二條f項の內容から推論すれば、1951年9月8日

平和條約調印の時點まで、南砂群島及び西砂群島で構成された「新南

諸島」は日本に帰屬していることを同盟軍が承認していたのは間違い

ない。

法理論では、1937年台灣台北州に編入された「尖閣諸島」、又は

1937年9月、台灣湖澎編入された「東砂諸島」、更に1939年4月に

台灣高雄州に編入された「新南群島」は、全て台灣に隨行して1945年、

4月1日、日本に編入し、日本の神聖不可分割國土の一部となった。

この三つの群島は全て台灣に屬していた故、當然ながら、日本帝國の

國土にも屬している。 

 

1945年4月1日の時點で、「主権所有」(to own sovereignty)の観點から言えば、日本の台灣に対する「主権」は國土の一部となった

フォルモサ島、尖閣諸島、南砂諸島、西砂諸島、澎湖群島、東砂諸島

にまで及んでいた。 

尚、「主権運営」(to exercise sovereignty)から雲えば、日本のフォ

ルモサに対する「主権権利」は管轄內の尖閣諸島、南砂諸島、西砂諸

島まで、湖澎に対する主権権利は、其の管轄內の東砂諸島にまで

及んでいるのは正確な記述である。

 

従って、1952年4月28日の時點で、米國は平和條約、第二十三條a項

依る主要佔領権國の身份で、日本が條約第二條b項でフォルモサ及び

澎湖の「主権権利」を放棄した後、戦爭法架構內の「征服事実」(fact

of conquest)に基づいて、フォルモサと其の管轄內の尖閣諸島、南砂

諸島、西砂諸島、及び澎湖と其の管轄內の東砂諸島に対する「佔領権」

(right of occupation)を享有した。

 

其の中で、フォルモサ島と澎湖群島及び東砂諸島は、1952年4月28日

平和條約発効後、米國のトルーマン政府が、中國殖民政権の台灣管轄

當局に佔領代理権を委ねた。 尖閣諸島に対しては、1972年5月15日、

ニクソン政府が政策性に依って琉球列島の一部として日本に返還した。

南砂諸島及び西砂諸島方面は、目前、平和條約の調印諸國であるフイ

リッピン、ベトナム、インドネシアと「日華條約」を結んだ「中華民

國(亡命中)」及び非調印國の中華人民共和國、マレーシア等が「先佔

原則」に依って日本軍撤退後、島礁を佔領し、各自「主権」を宣示し

ている。

 

事実上、南海諸島は既に1945年4月1日に台灣に隨行して日本國土の

一部となっていて國際法定義の「無主領土」ではない。

日本は平和條約架構內で、萬國公法に依れば、南海諸島に対して、

「剰余主権」があり、米國には「法理佔領権」があることは、爭えな

い法理事実である。従って日本は「主権國」であり、米國はその「佔

領國」である。

日本が平和條約第二條f項で、南海諸島の「主権権利」を放棄した後、

米國は、南海諸島を各自佔領している國家に対して「追討権」を保留

している外、當然ながら、南海諸島を尖閣諸島の處理模式で日本に

返還させる権利を有している。

 

E.結論

1.中國側は、古來から釣魚台列島及び南海諸島の存在を認知しているが、

國際法理論では、無人島の発見(discover)のみで、主張(claim)、制御(control)及び編入(incorporate)の順序手続きをとらなければ、領有(own)の構成にはならないとしている。

 

2.尖閣諸島は地理的にフォルモサ島の島嶼に連接していて、確かに中國が

 下関條約に依って日本に割譲し、日本の領土となった。

 

3.中國側が承認すべきことは:、中國が下関條約で台灣全島、尖閣諸島及び澎湖群島の管理権を永遠に日本に譲與したこと、1937年に尖閣諸島は既に台北州宜蘭郡に編入され、更に1945年4月1日、日本天皇が台灣を日本國土に編入し、南砂諸島、西砂諸島及び西砂諸島も全て台灣と同時に日本國土に編入した事実である。

 

4.萬國公法の拘束に基づく日本領土の中には,只、中國から割譲された領

  土のみ含んでおり、盜取した領土は無い。 カイロ聲明の「台灣は中華

  民國に返還する」との戦時中の協議は、事実上政治的聲明であって、実現

  の可能性はない。(shall be but could not be carried out)

 

5.日本の多方面との平和條約締結に対する萬國公法の拘束力は、「フォルモサ島と関連する尖閣諸島」、「澎湖群島と関連する東砂諸島」と「新南諸島」の「主権」は如何なる相手にも譲與することはできない規定になっている。只「主権権利」のみ放棄することができる。

法理論では、今でも日本は、上述の諸島に対して、依然「剰余主権」を

保有している主権國であり、米國はその佔領國であることに疑問の餘地はない。 南海諸島の爭議に絡む問題は、各國の利益競爭だけでなく、帰屬確認問題も絡んでいる。 日本政府は南海問題に対してもっと関心を払わなければならない。當然ながら、米國は如何なる國家の南海諸島に対する主権主張の立場を支持しない。

 

6.尖閣諸島は地理的にフォルモサ島の一部であり、琉球列島の一部ではな

い。 法理論では、確実に台北州宜蘭郡に編入された後、平和條約発効時點まで、何處にも移籍されていない。 故に尖閣諸島は「日本台灣」に帰屬しているのが正解である。 但し「台灣」を指しているのは、

「中國台灣省」や「台灣國」ではなく、日本に屬している「日本台灣」である。

然し、米國のニクソン政府は、意図的に尖閣諸島を琉球列島の一部と成し、「琉球返還」に隨行して日本に返還後、沖縄県石垣市に編入させた。

 

7.法理論では、日本が尖閣諸島は日本固有の領土であると承認していることは、同じく台灣も日本の固有領土だと承認していることに等しい。

  歴史と法理事実に対する承認(recognition)は、政治立場に対する主張(claim)ではない。

法律上、「承認」と「主張」は異なる故、サンフランシスコ平和條約

第二條b項の “Japan renounces all claim to Formosa and the Pescadores”(日本は台灣の主張権を放棄する)の規定に違反せず、

米國は、「日本台灣」に対する「法理佔領権」があることを承認すべきで

あり、更に戦爭法に従って、「日本台灣」の佔領地に対し、琉球佔領模式

に照合して、台灣に「米國軍政府」及び「台灣民政府」(Taiwan Civil Government)を設立すべきである。

 

 8.1945年4月1日の交戦中、日本が日本憲法を実施して、台灣を日本國

 土に編入した事実を、日本を征服した米國がなおざりにしているだけでなく、戦後の日本政府も忘卻している。そして中國に侵入の隙を與えて、今に至るも「台灣問題」が解決できないのである。

  

以上の問題の根本原因は、米國當局がサンフランシスコ平和條約架構內

  で萬國公法に依って完全に處理できる立場にあるにも係わらず、米國は、全て國家利益に符合する前提の下で決斷を下しているからである

   

本土台灣人は米政府に対し「日屬米佔領土」の台灣地位の正常化の完成を要求し促すことが第一要務である。

 

   

     作者: 林志昇  「フォルモサ法理建國會」 執行長


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