尖閣群島の争論 The Senkaku Islands or The Pinnacle Islands in Disupte

「此の論考はサン・フランシスコ講和條約を縦軸とし、國際法と戦爭法を橫糸に絡めて、現在日本・支那の間で領土権を爭っている尖閣群島問題の論考を進めたい。個人的な感情や民族意識を混入しないよう、心掛けて行きます。

 

サン・フランシスコ講和條約に謂う尖閣群島(釣魚台列島) の帰屬は:

“The Pinnacle Islands”は中國名で言う「釣魚台列島」、日本語では「尖閣群島   The Senkaku Islands」である。尖閣群島の帰屬問題は長年にわたる日支相互の主張を経て、近年、益々エスカレートしております。

 

A.1895年4月17日に日本と清朝が結んだ下関條約 (Treaty of Shimonoseki):

1.日清下関條約 (Treaty of Shimonoseki) 英語版:

Article 2(b)

China cedes to Japan in perpetuity and full sovereignty the following territories, …................   The island of Formosa, together with all islands appertaining or belonging to the said island of Formosa.

英語版下関條約のArticle 2(b) の"in perpetuity and full sovereignty"を英語の構成と文脈で言えば:

in perpetuityの意味はperpetually(永久に)、又in full sovereigntyの意味もfully(完全に)の動詞のcede(譲與或割譲)の修飾語助動詞である、是は譲與と割譲を強調する、即、「永久にして且完全に」の意思表示である。講和條約の陳述は明確で、譲與された対象の性質は「領土(territory)であり主権(sovereignty)でない。其他の漢文訳と和文訳で付屬するとされる島々のは包括的不特定な、政治用語である。若しも地理學的な位置を示す用語ならば、明白に:清朝はフオルモサ島と全ての付屬・関連した(being connected with)、或いはフオルモサ島の分類に帰屬する(being classified as)島々を、永久に且完全に日本に譲與する・・・・・と記述された筈である。

 

例えば;1898年12月10日、米國とスペインの締結したパリー講和條約で:「スペインはプエルト・リコ、グアム、並びに、フイリッピン群島として知られる列島群を米國に譲與(割譲)する (Spain cedes to the United States the island of Porto Rico, the island of Guam, and the archipelago known as the Philippine islands)」。

 

スペインが上述の諸島を米國に譲與したのは、清朝がフオルモサ島其の付屬の島々と、澎湖群島を日本に譲與したのと、軌を一にする。但し、「永久且完全な」を強調していない。

故に、清朝が日本に譲與したフオルモサ島と其の付屬の島々、及び澎湖群島とされる台灣は、日本領土に編入される前の法的地位は、スペインが米國に譲渡したプエルト・リコ諸島、グアム島などの「未編入(未合併)領土(unincorporated territory)」と同じである。

 

「領土の譲與(割譲)」の意義は下記の如く分析できる。

 

a.  譲與可能(credible) 或いは移転可能(transferable)な領土;

萬國公法の枠組み內で謂われる神聖不可分の國土の一部分ではない領土。例えば、プエルト・リコ、グアム島とフイリッピン群島はスペインの殖民地に過ぎず、之は正にフオルモサ島、其の付屬諸島及び澎湖群島と清朝の関係に等しく、これ等は「神聖不可分の國土」ではなく、法理上、台灣、付屬群島は清朝の拓殖地であったに過ぎず、譲與可能な領土であったのである。

 

b. 譲與或移転可能な領土の場合、受け取った國は、其の政策の必要に拠り、憲法の実施程度を見計らいながら統治権 (right to administer) と處分権 (right to dispose of) を含めた領土権 (right to territory) を行使して、新領土の法理上の地位を決定できる。例えば、プエルト・リコとグアム島は未だに米國の領土に編入されておらず 現在でも米國の「未編入領土」と分類されている。

相対的に、台灣の場合は、日本が國際法規に従い、1945年4月1日に、台灣全區域に日本憲法を実施し、台灣を日本に編入(合併)し、憲法を実施した。

 

元來の「未編入(合併 )領土」を「己編入(合併)領土(incorporated territory)」に移転した。この點はプエルト・リコとグアム島の対米國関係とは顕著な違いがある。

 

c. 領土の譲與(割譲)に於いては、譲與する方が、該領土の主権を具有していなければ、その領土を譲與又は割譲することが出來ないとは限らない。若しも、互いに競爭して主無き領土の主権を相爭う片方が、「主権競爭権を放棄して(renounce right to compete for sovereignty)」、主権の構築が可能となる「管理権」を他方に譲與することはできる。清朝と日本の間での台灣関係の處遇は正に此のケースである。

 

2. 日清下関講和條約(Treaty of Shimonoseki) の日本語版は:

第二條のb「大清國は台灣全島及其の付屬諸島の主権を永遠に日本に割譲す。」日本語版の記述は対象を「主権」と記したが、是は英語版の「cede territory(領土の割譲)の原意とは符合しない。事実上、大清國は台灣主権の構築は未完成であった、下関講和條約 Article 2(b) and 2(c) の「台灣の割譲」條文には台灣主権帰屬の暗示すらない。

 

3.日清下関講和條約 (Treaty of Shimonoseki) 漢文版:

第二條のb:大清帝國は台灣全島と付屬諸島の管理の権利を、日本に永遠に譲與(割譲)する。

中國の古書の記載では、確かに日本よりも早く尖閣諸島を発見(discover)した

記載はあるが、これ等諸島の発見後、シナ領土との宣言(claim to territory)をしていない。佔拠の意思(intention to occupy)に拠り、有効な佔拠 (effective occupation)を実行した證明が有った後に、始めて國際社會の認める「領土佔有権(title to territory)」が得られる。

 

大清帝國はフオルモサ島を212年間領有したと表向きに雲うて いたが、事実上大清律令は台灣島の凡そ三分の一程度(西海岸の6個の漢族の駐屯開墾區)に過ぎない。本質的には、漢族の駐屯開墾區の台灣のみで、島內に住む「高砂族(mountain peoples)」への有効統治は無く、台灣全島を統一する術も無く、「完全なフオルモサ主権(sovereignty over the whole of Formosa)」を構築する能力は無かった。當然ながら、フオルモサ島北部の大屯山の延長上に存在する、フオルモサ島と同一「大陸棚(continental shelf)」にある尖閣群島は清國台灣省の一部分としての登錄と地図への編入(合併)は為されていない。

 

それ故に、1895年4月17日の時點では、大清帝國はフオルモサ島と尖閣群島に対して、國際法に適う主権があるとは言えない、國際法學界は當時の台灣とは清國の駐屯開墾區であると定めた。

 

下関講和條約の漢文版を詳細に検證すると;

第二條の(b)で解ることであるが、大清帝國は「フオルモサ島の主権」を擁しているという文字は無い。又、フオルモサ島及其の付屬の島々の主権とも述べていない。條文として、白紙の上に黒い文字で明白に書かれているのは:

日本に永久に譲與(割譲)する対象は「台灣全島と其の付屬の島々の領土管理権(right to territory)」である。

 

此の條文の意味する處は:大清帝國の台灣主権構築が未完成であることを自ら認め、下関條約の下で、台灣主権の構築が可能となるべき「管理権」を、永久に 且つ完全に日本に譲與する。是が唯一 台灣の管理権を日本に譲與するという 下関條約の原意であろう!

 

B. 1943年12月1日に発布した所謂カイロ宣言 (Cairo Communiqué)

“ It is their purpose that …. , and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and he Pescadores, shall be restored to the Republic of China.”

 

カイロ宣言と稱される新聞発表によれば・・・;

彼らの目的は …..、及び日本がシナ人から盜み取った領土、例えば満州、フオルモサと澎湖群島は中華民國に返還すべきである。 とされている。

事実上、法理的に雲えば、カイロ宣言でのフオルモサと澎湖群島を中華民國に返還すると雲う戦時中の協議 (予定書 )は、其れを実行する法的根拠とはならない。此の點に就いて下記の如く分析する。

 

a. フオルモサ島の3分の2の領土は、大清帝國のシナ人には「化外の地」即野蠻人の住む未開化の地、高砂族區 (mountain country) の領地であり、カイロ・コミュニケの枠組みで雲う、日本が返還すべき中華民國の領土ではない。大清帝國は下関講和條約に依り、フオルモサ島と地理上付屬連接している尖閣群島、更にフオルモサ島に付屬している島々、例えば、北方にある(澎佳嶼、花瓶嶼、綿花嶼)等、それに澎湖群島を永久且完全に日本へ譲與(割譲)したので、今更「返還」の道理は存在しない。是が國際法上 永遠不滅の道理である。

 

b. シナは従來日本政府が1985年1月14日に內閣 (註1)」會議決定に基づいて「標柱を建てて、尖閣諸島を日本の領土として編入・帰屬せしめた事」を承認せず、シナの領土を盜み取ったものと認定している。然るに、フオルモサ島、尖閣群島と澎湖群島は確実に日本が下関講和條約で、清朝から「譲與(割譲)で取得したもので」、シナの言う「盜み取った」領土ではないので、日本はフオルモサ島、尖閣群島と澎湖群島を中華民國(中國)に返還する立場は無い。

 

(註1--翻訳者註)1985年1月14日(下関條約は4月17日で両者には関連性が無い)に、伊藤內閣の內務大臣擔當の山県有朋が、政府文書にて沖縄県知事宛に沖縄県と清國福州間に散在する無人島久米赤島他2島調査の件として、沖縄県知事の西村捨三に尖閣群島の監査を命令した。數回にわたる調査の結論として尖閣群島上は、何らの標識が無く、清朝の官庁の統治の存在も、住民の痕跡も無く、無人島であり、無主の地と判明した。1895年1月14日に日本內閣會議で內務大臣の発議を受けて、決議が行われた。 「內務大臣の発議で、沖縄県下、八重山群島西北、久場島、尖閣島などの無人島は、沖縄県の所轄とすべきであり、該県知事の申請を許可し、標識杭を打つべし」と命令し、正式に尖閣群島を沖縄の管轄と定め、日本領土とした。

 

c. フオルモサ島と付屬の島々、及び澎湖島を含めた台灣は、1943年12月1日のカイロ・コミュニケが発布された時點では。日本領土に編入されていなかった。しかし、日本の裕仁天皇が昭和20年(1945年)4月1日に「詔書」を発布して、台灣人に參政権を賦與し、法を整えた上で 台灣を日本本土に編入合併し、日本の神聖不可分割の國土の一部と為した。

従って、此れ等島嶼は萬國公法の規制の下では、法的根拠の無いカイロ・コミュニケで、中華民國に「返還」する必要のない事は、疑う餘地の無い事である。

 

d. 1945年 4月1日に発布された日本天皇の詔書 (Imperial Prescript) の意議:

 

日本の裕仁天皇が、米國の沖縄戦発動の(L-Day上陸) 當日、即、1945年4月1日に、國際法に準拠して、元來植民地であった台灣を日本國土に変更した。詔書の発布によって、台灣に日本國憲法が全面的に実施された。台灣住民を代表する者に議員の身份を賦與して、帝國議會に出席する、國政への參政権が賦えられた。台灣は日本國憲法の完全なる実施に因り、正式に日本國土に編入され、元來の下関條約の日本の「未編入領土」から転じて「己編入國土」と成った。歴史は本土台灣人に、台灣は國際法に拠って、日本の神聖不可分の國土であることを示している。

 

日本の裕仁天皇は同じように朝鮮住民にも參政権を賦與した。然るに「日韓併合條約」の中で、朝鮮皇帝が完全(completely)に, 且つ永遠(permanently)に日本天皇に譲與した対象は朝鮮の「統治権 (主権sovereigntyではない)」 のみであり、即、朝鮮の全ての主権権利(all rights of sovereignty)は、朝鮮帝國が元來主権獨立國家であるが故に、萬國公法の拘束下にては、主権義務が主権権利に隨伴して、日本に譲與するということはできない。因みに、朝鮮帝國領土の「主権(sovereignty)」が嘗て日本に譲與された事実も無く、又譲與不可能でもある。朝鮮が日本の統治期間中であっても、日本の「未編入(合併)領土」ではないので、朝鮮に於いて日本憲法を実施したとしても、或は又、「內地の延長」政策で日本國土の一部分であるとしての編入(合併)も不可能なのである。

 

e. 1951年9月8日サン・フランシスコ講和條約 (San Francisco Peace Treaty)の調印で:

Article 2(b):"Japan renounces all right, title and claim to Formosa and the Pescadores."  日本國は台灣及び澎湖諸島に対する全ての権利、権原及び請求権を放棄する。・・・と約定した・・・が;

萬國公法の枠組み內で、日本國が放棄できる台灣の対象とは、「天賦に非ざる移転可能な主権権利(unnatural alienable rights of sovereignty)」であり、是は領土統治権と領土處分権の「領土権(right to territory)」を含め、此れは 佔領の意志と、有効に実行する行為に依って、「領土佔享権-所有権(title to territory)及び領土宣有権-佔拠権(claim to territory)を獲得できる。従って、日本は台灣に対する「天賦の移転・変更不可能な主権義務 (natural inalienable obligations of sovereignty)を放棄することは出來ない。

 

故に、下関講和條約で清朝が日本に譲與(割譲)した対象は「領土」本質であり、サン・フランシスコ講和條約で、日本國が放棄出來たのは、「権利」の本質のみである。 この點に就いて、學究研究諸子の注意を促したい。

 

日本國が1951年9月8日にサン・フランシスコ講和條約に調印した時點では、連合國軍の佔領に伴って、日本國の主権は、「吊るし上げ狀態-保留・不確定狀態」に置かれていた。日本佔領の一環として、台灣の「主権権利」は1945年10月25日に中華民國佔領軍の「台灣當局」管理下に置かれていた。此れが故に、日本が講和條約の第二條(b)の條文で放棄可能な対象とは、事実上「台灣主権を恢復する権利 (to regain the rights of sovereignty over Taiwan)」である。

 

然し、日本が1945年9月2日に同盟軍への降伏時點で台灣に対して保有していた主権権利は;

 

1.フオルモサ島と付屬諸島。澎湖群島、東沙諸島 (注意:東沙諸島を含めてある)。

上述の諸島を日本は1952年4月28日に有効となったサン・フランシスコ講和條約の第二條(b)に拠って放棄した。此の日は、日本國が(敗戦後に保留とされた)其の主権を恢復・獲得した日であるが、台灣は1945年10月25日以來からのシナ人による軍事佔領下に放置されたままであった。1949年12月10日以降、 其の「台灣米國軍事政府(United States Military Government of Taiwan)」の代理人「台灣當局」のシナ人政権は亡命政権に転落し、台灣を殖民地化して、今日に至っている。

 

日本は1937年9月に東沙島を正式に佔領し、名前を西沢島と改名した。東沙群島も西沢珊瑚礁と改め、東沙諸島(the Prates Islands)は澎湖庁馬公要港部の管轄下に置いた。連合國は東沙諸島を澎湖諸島の一部と見做して、対日講和條約では其の處分方式を別段、規定してない。因みに、台灣の佔領軍が、現在も之を継続佔領中であるのは當然の事柄である。

 

2. 尖閣諸島:

地理的(地學的)観點から雲えば、尖閣諸島は元來の琉球王國管轄內、即ち、36個の島々で構成される琉球列島の一部ではなく、フオルモサ列島の一部を構成している。フオルモサ島連接(appertaining to)の付屬島嶼に符合する諸島で、下関條約によって日本國に譲與(割譲)された。

 

昭和12年と13年の台灣総督府の公報に依れば 、尖閣島の魚業権を日本領台灣の管轄とした。1937年から1940年の間に、台北州と沖縄県の尖閣諸島の漁場に関しての紛糾があり東京裁判所が1944年に下した判定では:尖閣諸島の管轄は台北州宜蘭郡に所屬し、沖縄県とは関係が無い」地域とされている。種々の記錄から推察される其の経緯は;

1896年4月に尖閣諸島は沖縄県八重山郡に編入されたが、その後、石垣市所屬に変更され、更に、第十七代台灣総督小林躋造の時代に所管が変更された。所謂皇民化運動が1937年(昭和12年)4月1日に開始され、尖閣諸島は其の政策に歩調を合せ、台灣総督管轄內の台北州宜蘭郡に移籍された。尖閣諸島を台灣系日本人の生活圏に組み込み、「人民が領土內で自然生活を共にする(living together in the state of nature)」 という萬國公法の枠組みに合致せしめ、國家構成の條件を満たした。

 

引き続き、1945年4月1日に日本明治憲法が台灣に実施されて、台灣が日本の國土に編入され、尖閣諸島も正式に日本國土の一部に編入されたのである。

 

尖閣諸島の地位問題に就いての紛爭には、二種類の相反する認識が有る。

 

a.沖縄県石垣市に偏有された尖閣諸島

 

支那の見解は日本が1879年4月4日に琉球王國を併呑したことを本來認めておらず、日本が1895年1月14日に尖閣諸島を自己裁量 (unpublished)で日本國土に編入した事をも含めて否認している。因みに、支那は日本が下関條約の調印以前に尖閣諸島を既に沖縄県に編入した事例以外にも、1919年に尖閣諸島を沖縄県に付隨するとして、正式に日本國土に編入された事も認めていない。

 

b.台灣台北州宜蘭郡に編入された尖閣諸島

支那側は尖閣諸島が下関條約で1985年5月8日に有効と成った後、永久に日本に帰屬したことを認めざるを得ない。清國が下関條約に於いて:

日本が尖閣諸島を含めた台灣に対して主権の構築が出來る「管理権」を取得すると同時に、

1937年以來尖閣諸島が台灣の台北州宜蘭郡の管轄下に屬して來た経緯の上で、台灣が1945年4月1日に正式に日本に編入された事実は、尖閣諸島も亦、台灣と其の付屬諸島が日本の神聖不可分の領土の一部である事を認めざるを得ない。

 

是は日本國土の中で、清朝から「譲與されて取得した」領土であり、日本が支那から「盜み取った」尖閣諸島と台灣諸島ではない。故に、カイロ・コミュニケに謳われる支那・中華民國に返還されるべき領土ではない。

 

日本は1952年4月28日以降、サン・フランシスコ講和條約にて、其の國家主権を回覆した。

(然乍 日本は)、講和條約 発効以前には、事実上台灣での主権行使が不可能であり、台灣に付屬している尖閣諸島の移籍を行っていない。

 

日本が講和條約の第二條(b)で、台灣への主権行使権利の恢復を放棄した後、米國は第23條(a)に拠って、日本に対する主要佔領権國(principal occupying power)と位置付けられ、講和條約枠組みでの「協議に拠る譲與(割譲)」では無く、戦爭法の枠組みでの、「征服・佔領」の概念に拠る、征服権から生まれた佔領権 に従って (accordingly), フオルモサ島、澎湖島、尖閣諸島等の「日本台灣(Japan Taiwan)」の主権権利を (注意:主権では無い) 取得した。

(此處に於いて、)萬國公法の枠組みでは、日本は台灣を含めた尖閣諸島、に就いては 沖縄と等しく、1952年當時の米國國務長官ダレス(John Foster Dulles)の雲う「剰余主権(residual sovereignty)」有る。

 

1952年4月28日講和條約 発効時點での、米國に依る日本と台灣處理(の実態)は以下の通りである。

 

1.居住に適する島々(Inhabitable islands)の部分:

米國は「反共の必要とカイロ・コミュニケの義理」に基づき、フオルモサ島とフオルモサ島に付屬する日本台灣周辺の島及び澎湖群島の可居住な島嶼を蔣介石元帥の率いる台灣統治當局に代理執行の「佔領権」を委ねる。

 

2. 居住不適な島嶼の部分

米國は尖閣諸島の「佔領権」を台灣統治當局、或いは日本政府に渡してない。両者共に尖閣諸島には行政権は無い。

サン・フランシスコ講和條約の第三條の條文に謂う北緯29度以南の琉球列島及び大東諸島を含む南西諸島に就いて;

"....., Nansei Shoto south of 29 deg. north latitude (including the Ryukyu Islands and the Daito Islands), ....."

尖閣諸島は地理上、又は行政的に一區分であっても、1951年9月8日の時點では、琉球列島或大東諸島の一部を構成するものでは確実になく、講和條約第三條の雲う「北緯29度以南琉球列島及大東諸島の南西諸島」にも尖閣諸島を含めてない。

 

然し、1970年に米國國務省が尖閣諸島に関する新聞記者間の質問に 次の如く回答している:

Under Article III of the peace treaty with Japan, the United States has administrative rights over the "Nansei Shoto." This term, as used in that treaty refers to all islands south of 29 degrees north latitude, under Japanese administration at the end of the second world war, that were not otherwise specially referred to in the treaty. The term, as used in the treaty, was intended to include the Senkaku Islands. Under the treaty, the United States government administers the Senkaku Islands as a part of the Ryukyu Islands, but considers that residual sovereignty over the Ryukyus remains with Japan. As a result of an agreement reached by President Nixon and Prime Minister Sato in November 1969, it is anticipated that administration of the Ryukyus will revert to Japan in 1972.

日本との平和條約第三條の下で米國は南西諸島に対する行政権を持っている。

本規定では 第二次大戦終結時に 北緯29度以南に日本が保持していた全ての諸島とされ、特別に詳細な名指しはされていない。通常の條約文にもある如く、其の文言には尖閣諸島を含むものと意図されている。

本條約の下で、米國は尖閣諸島を琉球列島の一部として行政権を執行しているが、(同時に)其の殘餘主権は日本に屬すると考えている。

1969年十一月の ニクソン大統領と佐藤首相との合意の結果、沖縄の行政権は1972年に日本に返還されるとされた。

 

上記の米國國務省による回答から推察できる事は:

 

1.講和條約の第三條では北緯29度以南の南西諸島に対する、琉球列島と大東島諸島等として表現される島々に就いての具體的明細の列挙は無い。

2.尖閣諸島は、米國の台灣當局への委託範囲內にはなく、米國自身が其の佔領を司り、且つ、米國が(其の征服に因んで)佔領した尖閣諸島に対して、サン・フランシスコ講和條約の規定に則り、支配と最終的な帰屬の決定権を持つ。

3.米國は恰も、接木をするような手法を以って、意図的(intende)に、或は計畫的に(design)か、元來台灣に屬していた尖閣諸島を 政策的に琉球列島の一部分として、沖縄の日本返還とともに、日本沖縄県に編入せしめた。

4.行政區分として、考察すれば、サン・サンフランシスコ講和條約の発効日まで、尖閣諸島は台灣宜蘭郡に屬していた事実は変更・移転されていない。米國の尖閣諸島に対する認識は

1952年時點での、トルーマン政府の其れと、1970年のニクソン政府による 政策的な「琉球列島の一部」とした認識とは、必ずしも一致しない。

 

米國が1971年6月17日に日本と調印した「沖縄返還協定(Okinawa Reversion Agreement)」は講和條約の第三條及萬國公法枠組み內での、琉球列島及び大東諸島の統治管理権、即、沖縄島の統治管理権(administrative rights over Okinawa)を日本に返還した。(要注意:沖縄返還に當って住民投票は行はれていない。多くの學者達にはこの點の誤解があるようだ。)

 

米國は日本が尖閣諸島の行政管理権を台灣に編入した事に因んで、上記「沖縄返還協定」の第三條でなく第二條b項の萬國公法の枠組み內で處理すべきである。

是は”Italian Somaliland”の例を參考にすれば明白である。「イタリアに対する講和條約(Peace Treaty with Italy)」に基ずいて宗主國たるイタリアに、放棄せしめた後、國連がイタリアに対して、委託管理の形式で返還された。

琉球が日本に返還された後、日本は尖閣諸島を再び沖縄県石垣市に編入した。 米國は「尖閣諸島返還」の方式を參考にして「台灣の正常な地位を恢復せしめ (to restore Taiwan to its normal status)」得る完全な(合法的な)立場が有る。

 

尖閣諸島は 地理的にも法理的にも琉球列島の一部を構成しておらず、確実に台灣の一部である。(この事は);

 

日本政府が宜蘭蘇澳港から111キロに在る琉球列島の一部、與那國島を台灣に編入しておらず、逆に遠く離れた、即ち、基隆港外186キロの尖閣諸島を台灣宜蘭郡に編入した事で推察できる。

地理的 或は、法理的に言うなれば、尖閣諸島は琉球列島系に屬せず、その実態は、フオルモサ島系である。

日本政府が絶えず尖閣諸島は日本固有の領土と主張しているが、此の意味する處は台灣が日本の神聖不可分割國土の一部であると「承認 且つ、単純明快に瞭解(認識)」するに等しい。

 

3.新南群島(南沙郡島)

日本と南シナ海の諸郡島との関係、並びに、其の法理的考證は下記の如くである。

a.     日本語の文獻では:

「昭和14年3月30日付けの台灣総督府令第31號に依り、新南郡島を大日本帝國の領土として、台灣高雄州高雄市に編入した。

b.     漢文の文獻では:

1939年3月30日:日本軍は南沙の太平島を佔領。

1939年4月9日:日本軍は太平島に盤踞しているフランス軍とベトナム漁民を全部駆逐した。

1939年4月28日:日本台灣総督府の告示代122號の宣佈:「西沙諸島 (平田群島) 及び 南沙諸島の各島の名稱を変更する。総稱は「新南郡島」として台灣高雄市に編入する。」 

    

c.サン・フランシスコ講和條約の規定:

第二條の(f)項

"Japan renounces all right, title and claim to the Spratly Islands and to the Parcel Islands."

日本國は、新南郡島及び西沙郡島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 

萬國公法上の要件を欠き、地理上の発見のみを以って自國領土と主張する支那の文獻記載に依れば、「新南群島」がどの法令で、何時 台灣高雄州に編入されようとも、地理上の南シナ海諸島の主権は確実に満州(清朝支那)に所屬し、日本には其の處分権は無い事になる。

是が故に、サン・フランシスコ講和條約の第二條(f)項の條文內容から敷衍し得る、連合國の認識;即ち 連合國が南沙諸島及び西沙諸島で構成する「新南郡島」が、1951年9月8日講和條約を調印する時點では、既に日本に帰屬していた・・と、充分に推察できる事は、支那の主張を覆す上で、重要な事実である。

 

法理的に言えば、1937年に台灣台北州に編入された尖閣諸島、或いは1937年9月に台灣澎湖庁に編入された東沙諸島、更には、1939年4月に編入された台灣高雄州の新南郡島の全てが、1945年4月1日、台灣の日本本土編入に伴い、日本の神聖不可分の國土の一部分となった。當然な事ながら、これ等は日本帝國に所屬する國土である。

 

 1945年4月1日の時點で、「所有する主権 (to own sovereignty)」の観點で言えば、日本國の主権は日本國 國土の一部分である、フオルモサ島、尖閣諸島、南沙諸島、西沙諸島、澎湖群島、東沙諸島等、個々の島々に確実に及んでいたのである。

又、「主権の執行(to exercise sovereignty)」の観點から言っても、日本國がフオルモサ島の主権権利をフオルモサ島管轄の尖閣諸島、南沙諸島、西沙諸島で、順調に執行し、又「澎湖群島(Pescadores)」に対する主権の執行も其の管轄內の東沙諸島に及んでいたと雲うのは、正確である。

 

此等の論拠に拠れば、1952年4月28日の時點で、日本國がサンフランシスコ講和條約 第二條(b)項に因り フオルモサ島 (Formosa)と澎湖群島 (Pescadores)の主権権利の恢復を放棄した後に、 米國は同條約 第23條(a)項に謂う 主要佔領國の身份を以って、戦爭法の枠組み內で、米國の征服の事実(fact of conquest)に基づき、フオルモサ(Formosa)と其の管轄內の尖閣諸島、南沙諸島、西沙諸島、及び澎湖群島(Pescadores)と其の管轄內の東沙諸島に対して、「佔領権(rights of occupation)」を持つことになるのである。

 

此等諸島の內、フオルモサ島、澎湖群島と東沙諸島は、1952年4月28日の講和條約発効日後に、米國のトルーマン政府が、本質的には中國(流亡)殖民政権である台灣管理當局に米國の代理佔領を委ねた。

 

尖閣諸島はニクソン政府が1972年5月15日に政策的な判斷で、琉球列島の一部分として日本に返還した。

 

新南群島の南沙諸島と西沙諸島については、當面、日本との講和條約調印國である フイリッピン、ベトナム、インドネシア 並びに、日本と二國間の和約を結んだ中華民國 (現在流亡政府に淪落し、台灣に不法に居座っている)、及び、日本とは平和條約を結んでない中華人民共和國、マレシア、ブルネイ等が「佔領優先の原則」を口実に、日本軍が撤退した後の、島やサンゴ礁を佔領し、主権を主張している。

 

此等、南シナ海の諸島は事実上、既に1945年4月1日に、台灣に付隨して日本國土の一部分に編入されており、國際法の雲う「主なき土地」ではなかった。

日本はサン・フランシスコ講和條約の枠組み內で、萬國公法に拠り 南シナ海諸島に「剰余主権」がある。

 

米國に「法理佔領権」が有るのは爭えない法理的な事実であるのを前提に看れば、日本國が主権國で、米國が佔領國である。日本が講和條約の第二條(f)項に依り、南シナ海の西南諸島主権権利の恢復を放棄した後、米國は南シナ海の西南群島の島を佔領した関連國に対して、「追討権」が保留できると共に、當然の事として、此の 南シナ海の新南群島を尖閣諸島のモデルに準じて日本に返還することも可能なのである。

 

E.結論

 

1.支那人の常套手段であるが、彼等は 古來 尖閣諸島と南シナ海諸島の存在を知っていた と主張して來た。國際法理で言えば、無人の土地に対しては、単なる発見(discover)のみで、中外への宣言(claim)もせず、その土地の管理統制(control)の実體も無く、又、國家への編入を(incorporate)定めた法的手続きも無いとなれば、領有(own)は成立しない。

 

2. 尖閣諸島の地理的因素は、フオルモサ島の島嶼に近接 (appertaining to)しているので、確実に清朝が下関條約で日本に譲與した領土である。

 

3. 支那が承認せざるを得ないことは;

「清朝は下関條約に依り、台灣諸島全部、尖閣諸島全部、澎湖群島全部の管理権を永久的に日本に譲與した。」支那も又、日本が1937年に尖閣諸島を台灣宜蘭郡に編入した事を承認せざるを得ない。同時に1945年4月1日に日本天皇が台灣を日本國國土に編入した事実と、其れに伴って同時に、東沙諸島、南沙諸島、西沙諸島も亦、日本國土に編入された事実も認めざるを得ないのである。

 

4. 日本領土內には萬國公法の規制に従って 清朝から譲與されて取得した土地が有るのみで、盜み取った如何なる領土も無い。カイロ・コミュニケで米・英・支三國首脳が戦時中の協議で謂う「台灣は中華民國に返還すべきである」は、実現不可能で(shall be but could not be carried out)ある。是は政治的言葉の彩に過ぎない発言であった。

 

5. 萬國公法は日本の多國間講和條約に対しては拘束力を有している。

講和條約において「フオルモサ島と尖閣諸島」、「澎湖群島と東沙諸島を一諸に」更に、「南沙諸島と西沙諸島を含めた日本名の新南群島」の主権を如何なる相手にも譲與出來ない。日本は「主権の権利」を放棄したに止まるからである。法理的に言えば、上述の諸島は疑問無く、日本國が「剰余主権」を保有する主権國であり、米國は佔領國である。

南シナ海論爭の及ぼす處は、単なる関連諸國の利益問題に止まらず、各島嶼の主権帰屬の問題に辿り著くのは理解できる。

日本政府も國民も此の問題に無関心であってはならない。當然ながら、米國政府の立場は南シナ海の島嶼への主権主張を支持しないのが、一貫した政策である。

 

6.  尖閣諸島は地理的に示される様に、フオルモサ列島の一部であり、琉球列島の一部ではない。法理的に言えば、台北州宜蘭郡に編入された後、サン・フランシスコ講和條約の発効日までの間、移籍された事も無いので、尖閣諸島は日本國土の台灣に所屬するが正解であろう。

此處で雲う「台灣」とは、支那の台灣省でもなく台灣國でもなく、日本國土の台灣である。

然るに、米國ニクソン政権が政策的に尖閣諸島を琉球列島の一部として、「琉球返還」に伴って、日本に返還し、沖縄県石垣市に編入された。

 

7.  法理的に言えば、日本國が尖閣諸島を日本固有の國土と承認することは、台灣が日本國の固有領土で有ると承認することでもある。是は、歴史的にも法理上の「承認(recognition)」行為であって、「政治的配慮を交えた立場上」の主張(claim)ではない。 法律上、承認と主張は同義ではない。是はサン・フランシスコ講和條約の第二條(b)項の「日本國は台灣と澎湖群島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」の規定に違反するものではない。

此の情況の下では、米國は 米國が日本台灣に対して法理上の佔領権が有る事を 承認し、引き続き 戦爭法に拠る、琉球佔領の前例に照し、日本台灣の佔領地で、米國に(與えられた)権利と責任において、台灣米國軍政府と「台灣民政府(Taiwan Civil Government)」設立すべきである。

 

8.     1945年4月1日、太平洋戦爭たけなわの時點で、日本は憲法施行範

囲を台灣に広げて 此れを実施し、台灣を日本國土に編入した史実は、征服者の米國に蔑ろにされたに留まらず、終戦後の日本國の執政者にさえも、忘卻の彼方に押し流してしまった。

結果として、日本政府は シナに隙を與え、今日に至るも、台灣問題の解決が出來ず、尖閣諸島や南シナ海の新南郡島にからむ 本末転倒的な論爭にも、軟弱な立場で困惑している。

無論、上述した諸問題の根本的原因は米國當局に有る。

サン・フランシスコ講和條約の枠組み內で、米國は萬國公法に従った、完全無欠の立場があり 問題を處理できるが、米國には國益を前提とするハードルが存在する。

 

台灣系日本人は 米國政府に対して(國を建て、國籍を得る為に)「誰(who),  何時(when), 如何に (how)」の手順と方式の示唆を要求し、台灣に於ける「日本國土たる台灣領土を米國が佔領」している現狀の正常化を逐一進めるのが急務である。(全文完)

 

作者:林志昇(武林 志昇・林峰弘)。フオルモサ法理建國會:幹事長 

2010-10-01

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翻訳者からのメセージ:

 

日本にも林志昇博士の論考に詳しい方(大阪と東京)がいます。建設的な行動派のご質問者には、仲介しますので、メールを下さい。(陳 辰光 ck_chen31@hotmail.com)

 

日本のはらからへ:

 

シナ海軍軍艦の改造偽造漁船の計畫的な日本艦船への衝突攻撃事件の映像が本末転倒な終盤となり、心ある日本人の涙が不毛に終わりましたが、私は抜刀して振り上げた刀の行き場所を模索して參りました。

 

更に、ロシア大統領メドベージエフの日本北方領土侵犯に引き続き、閣僚の4大臣が日本國の止めを刺さんと目論んでいます。日本は素晴らしい法理の正當性を寶の持ち腐れにしています。私なりの「皆さんの行える、精一杯の為すべき事を書面にて逐次ご報告しますが、先ずは、同封の論考を熟読してください。引き続き日本北方四島(千島群島)の論爭もお送りします。寶です、粗末にしないで下さい。 日本國土を守る重要な論文です。多くの日本人、メディアと政治家、シンク・タンクの先生方、海內外のブロッグの筆者にも ご転送してください。!

私は米國に住む、台灣建國動家の一人です。私たちは米國の法廷で、アメリカ政府を被告として、訴訟を1・2・3審続けましたので、ある程度の概念と遣りかたを経験しました。日本の お役に立てば幸甚です。

 

陳 辰光 (ノベル・タツ・ミツと訓読みで読めます。)

2011-01-01

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